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金沢牧師から安井益男への手紙の現代日本語訳、1915年7月21日

1915年7月21日付の金沢牧師から安井益男への手紙の現代日本語訳。手紙の中で金沢牧師は、スピーチをしたいので益男に主催してほしいと頼んでいる。最近彼の教会で同じような演説が行われ、多くの聴衆が集まったことに触れ、同じように聴衆が集まることを望んでいると述べている。彼はまた、益男の子供たちに洗礼を受けさせ、宗教教育を施すべきだと提案する。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Kanazawa, Keijiro, Reverend

野地吉蔵から安井益男への手紙の現代日本語訳 1916年4月30日

1916年4月30日付、野地吉蔵から安井益男への書簡の現代日本語訳。野路は、妻の渡米を手配してくれた安井に感謝している。野地は1916年7月12日、ワシントン州シアトルで妻・アサヨと結婚した。
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Noji, Kichizo, 1884-1968

藤本廉一の日記の現代日本語訳、1913年4月29日

1913年4月29日付の藤本廉一の日記の現代日本語訳。廉一は、その日は安井兄弟商会の仕事で忙しかったこと、またポートランドの輸入商社、帝国商会が解散するという噂を聞いたことを書いている。益男が英字新聞を読むのを聞いた後、廉一は日米間の緊張が高まっていること、悪化する経済状況を是正するための措置を講じることの重要性についてコメントする。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Fujimoto, Renichi, 1883-1965

藤本廉一が岡山県知事の桧垣直右に提出した海外渡航許可申請書の現代日本語訳、1903年9月18日

1903年9月18日付で藤本廉一が岡山県知事の桧垣直右に提出した海外渡航許可申請書の現代日本語訳。申請書の中で廉一は、兄の安井泰逸郎と事業に従事するため、オレゴン州ポートランドに5年間渡航する意向を示している。廉一は、兵役のために日本に帰国する前に、アメリカで英語を学び、さまざまな企業で見習いとして働いたことを語っている。彼は、すでに確立しているビジネスを泰逸郎とともに拡大する意図と、その資金調達方法について説明している。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Fujimoto, Renichi, 1883-1965

藤本廉一から安井静代への手紙の現代日本語訳、1930年8月14日

1930年8月14日付の藤本廉一から安井静代への手紙の現代日本語訳。手紙の中で廉一は、フッドリバーに新しい安井ビルが建設されたこと、そして静代の夫、益男が命にかかわる病気から回復したことについて感想を述べている。廉一は、日本にいる多くの人々の近況を述べ、ビジネス事情や不況が日本経済に与えている悪影響について書いている。彼は日本で過ごした9ヶ月間と、早くアメリカに戻りたいという願望を書いている。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Fujimoto, Renichi, 1883-1965

藤本廉一から安井美智への葉書の現代日本語訳、1929年7月26日

1929年7月26日付の藤本廉一から安井美智への葉書の現代日本語訳。廉一は美智に、ワイオミング州のイエローストーン国立公園に到着したこと、彼と彼の仲間で釣りをしていることを報告する。彼は、美智も大きくなったら公園を訪れることができるだろうと書いている。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Fujimoto, Renichi, 1883-1965

藤本廉一から安井益男への手紙の現代日本語訳、1930年9月8日

1930年9月8日付の藤本廉一から安井益男への手紙の現代日本語訳。手紙の中で廉一は、日本を再出国するためのビザを申請中であり、その許可を得るために特定の書類が必要であると書いている。領事館から許可を得るために提出しなければならないとして、廉一がシアトルで益男に渡した上陸許可証を送るよう要請している。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Fujimoto, Renichi, 1883-1965

藤本廉一から安井敬への手紙の現代日本語訳、1930年8月15日

1930年8月15日付の藤本廉一から安井敬への手紙の現代日本語訳。廉一は敬に、絶版になった日本語の本を取っておいてほしいと頼む。彼は、手に入らなくなった日本語の本を地元の書店が元より高く買い取ることに同意したことを伝える。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Fujimoto, Renichi, 1883-1965

片山高志から安井益男と藤本廉一への手紙の現代日本語訳、1931

片山高志から安井益男と藤本廉一への手紙。日付は記されていないが、益男と廉一の父品太郎が1931年3月に急死した直後に書かれている。手紙の中で高志は、信太郎の突然の死に驚いたこと、葬儀に参列したことを記している。そして、益男と廉一への慰めと応援の言葉を述べるとともに、できる限りの手助けをしたいと申し出ている。高志は、小売業で苦労していることを書き、忙しかったのですぐに手紙を書けなかったことを詫びる。あとがきでは、廉一の来日後、敬のために廉一に切手をことづけなかったことを詫びている。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

Katayama, Takashi

柄澤茂登から安井静代への手紙の現代日本語訳、1931年

柄澤茂登から安井静代に宛てた、静代の息子敬の死を悼み、悲しみを伝える手紙の現代日本語訳。茂登はその知らせに衝撃と悲しみを表し、幼い頃の圭の思い出を語る。茂登は、死んだわが子を思って悲しみが止まらなかった母親が、その子の魂があの世で安らぎを得るのを妨げたというエピソードを語る。茂登は静代に、これ以上敬のことを嘆き悲しまないよう懇願し、敬と静代、そして安井家の他の家族のために祈りを捧げる。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Karasawa, Moto

松井頼定から安井益男への手紙の現代日本語訳、1927年3月8日

ポートランド領事館の松井頼定から安井益男への1927年3月8日付けの手紙の抜粋部分の現代日本語訳。 この手紙の中で松井は、日米親善を促進するための昼食会の効果について述べ、このイベントを報じた新聞記事が、排日土地法の緩和に関する世論に影響を与える一歩となったことを指摘している。また、排日土地案に反対しているフレッチャー下院議員に会うため、インディペンデンスに行く予定であることを述べている。また、オレゴン州ザ・ダレスでの日本語学校建設に関する最新情報も書かれている。松井はこの手紙では肩書きも領事館の公式文具も使っていない。              
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Matsui, Yorisada

東野初太郎から安井兄弟商会への手紙の現代日本語訳

東野初太郎から安井兄弟商会への手紙の現代日本語訳。東野は手紙の中で、安井兄弟が妹に与えてくれた好意に感謝し、今後も支援を続けるよう要請している。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Azumano, Hatsutaro, 1895-1956

木下利から安井益男への手紙2通の現代日本語訳、1918年

木下利から安井益男への手紙2通の現代日本語訳。最初の手紙では、木下が休戦記念日のシアトルでの活動を紹介し、スペイン風邪の状況について述べている。そして、日本に帰国するための出国許可証の到着を待つ間、益男に経済的援助を求める。2通目では、スペイン風邪がシアトルに与えた影響と妻の回復について述べ、益男の妻の安静と療養を願っている。 翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Kinoshita, Tadashi

志藤定太郎から安井兄弟への手紙の現代日本語訳

志藤定太郎が安井兄弟に宛てた手紙の現代日本語訳。志藤がシアトルから横浜に向かう途中、海が荒れて10日ほど到着が延びたこと、米国に帰国する予定があることなどが書かれている。手紙は1月5日に書かれたものだが、年は特定されていない。1920年から1940年の間に書かれたものと思われる。
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Shido, Jotaro

岡崎恕平の住民票申請書下書きの現代日本語訳、1916年11月

在ポートランド日本領事館に、家族の用事で日本に戻るための臨時パスポートの発行を依頼する岡崎恕平の在留届のコピー(下書き)の現代日本語訳。岡崎は香川県から移住し、オレゴン州フッドリバーに住居を構えていることが記されている。この書類と2枚目の草稿は安井益男が保管しており、安井が岡崎にこの申請を手伝ったものと思われる。
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Okazaki, Johei, approximately 1884-

小田梅七から安井益男への手紙の現代日本語訳、1924年頃

2月8日付の小田梅七から安井益雄への手紙の現代日本語訳。この手紙の中で小田は、暖かい春の到来とは対照的に、カリフォルニアの反日法がもたらした冷たい感情を論じている。また、3月か4月に日本へ帰国するため、金融機関の連絡先を教えてほしいとも書いている。この手紙は2月8日に書かれているが、年は特定されていない。カリフォルニア州の1924年移民法について触れていることから、1924年に書かれたものと思われる。
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Oda, Umeshichi

安井静代から安井剛とミキへの手紙の現代日本語訳。

安井静代から安井剛とミキへの9月5日付けの手紙の現代日本語訳。この中で静代は、家族としてのモージャーの農園を含む資産売却の契約条件や、弁護士との契約交渉について述べている。また、益男の仮釈放を求める手紙を書くなどの、自分と家族の努力についても触れている。そして、トシオ、稔、録、ホーマー、由加の近況についても触れており、稔が陸軍に入れなかったことに失望していること、トシオが司法試験に合格しなかったため稔とトシオが一緒に法律事務所を開設しようとの努力が実らなかったこと、ホーマーがミネソタ大学に入学すること、由加がウィスコンシンに行く予定であること、などを報告している。静代は、益男が1月までに帰宅できなければ、剛のところに戻るか、ミニドカのキャンプに行くことになるだろうとも書いている。
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Yasui, Shidzuyo, 1886-1960

安井静代から安井剛、ミキエ、ジョーニーへの手紙の現代日本語訳、1944年6月23日

1944年6月23日付の安井静代から安井剛、ミキエ、ジョーニーへの手紙の現代日本語訳。 この手紙の中で、彼女はモージャー・ファームの土地売却について話し、廉一、稔、益男、録、週を含む家族の近況を伝えている。月末に益男の再審理が行われることにも触れている。安井益男から安井静代宛に、モージャー・ファームの土地売却についての1944年4月21日付の英文の手紙が同封されている。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Yasui, Shidzuyo, 1886-1960

安井稔の履歴書の現代日本語訳

フッドリバー市の日米共栄協会理事長猪佐猪之助から1940年2月15日付けで在ポートランド帝国領事館宛に送られた、安井稔の履歴書の現代日本語訳。同文書には、オレゴン州弁護士資格試験に合格し、オレゴン州弁護士資格を取得したことなど、稔の学歴や業績が記載されている。また、オレゴン大学ロースクールからの英文の推薦状も添付されている。           
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。

Yasui, Minoru, 1916-1986

安井益雄の履歴書とカバーレターの現代日本語訳、1939年

在ポートランド日本国総領事館の依頼により、安井益雄が日本工業会から日米関係改善への卓越した努力に対して贈られる賞への推薦に関して作成した履歴書とカバーレターの下書きの現代日本語訳。履歴書には、益男の日本での教育、渡米の理由、渡米後の経歴、コロンビア殖産会社の設立、オレゴン日本人会の設立、反日土地排除法案の成立阻止活動、日米協会の設立、日米工業協会から産業功労賞の受賞など、幅広い地域活動への参加などが記されている。また、安井兄弟の事業概要が添えられ、在ポートランド日本国総領事館へのカバーレターも含まれている。
翻訳注:原文および英訳も掲載されている。未翻訳の最後の2ページには、カバーレターの第2稿が含まれている。

Yasui, Masuo

安井益雄から浅井佐五郎への手紙 1946年1月18日

1946年1月に安井が出所した直後、安井益雄から浅井佐五郎に宛てた手紙の英訳。この手紙の中で安井は、浅井の友情に感謝し、第二次世界大戦中の日系アメリカ人の強制連行・強制収容に対する悲しみを述べている。また、オレゴン州フッドリバーのアメリカ退役軍人会が、地元の記念碑から日系人兵士の名前を削除した事件についても言及している。また、浅井の息子である正巳が米軍に入隊し、白人住民の反対を押し切ってフッドリバーに帰還したことを賞賛する。また、自分もフッドリバーに戻りたいという希望を語っている。翻訳注:この手紙は、原文と英訳もある。

Yasui, Masuo

安井益男の日記の現代日本語訳、1923年9月27日

1923年9月27日付の安井益男の日記の現代日本語訳。益男は、息子の稔が熱があったにもかかわらず、朝学校に行かせたと書いている。その後、彼は日本の地震救援のために寄付をした人たちのリストを作成し、掲載してもらうようポートランドの央州日報新聞社に送った。彼はまた、合計2,000ドル近い義援金を銀行に持っていった。益男は、娘の由紀が結核で倒れてからもう1年になると述べ、由紀の死に対する悲しみを綴っている。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Yasui, Masuo

安井益男の日記の現代日本語訳、1923年9月17日

1923年9月17日付の安井益男の日記の現代日本語訳。益男はその日働き、関東大震災の被災者に送るために寄付された衣類を「慰問袋」に詰めたと書いている。また、息子の剛が病気になったことや、梨の収穫が終わったことも書いている。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Yasui, Masuo

安井益男の日記の現代日本語訳、1923年2月18日

1923年2月18日付の安井益男の日記の現代日本語訳。益男は、子供たちとの用事や娘由紀の墓参りなど、その日の出来事を綴っている。そして、由紀が亡くなってから110日が経ったことを述べ、由紀との思い出と、由紀が亡くなったことへの悲しみを綴っている。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Yasui, Masuo

安井益男の日記の現代日本語訳、1912年8月30日

1912年8月30日付の安井益男の日記の現代日本語訳。益男は、静代から渡米を喜ぶ手紙を受け取ったと書いている。その後、汽車でポートランドに向かい、伴商店で開かれた会合に他の数人と出席し、14,000ドルの抵当を借り入れる承認をした。益男は、その日の残りの時間、街でいろいろな人々と交流し、夜更かしをして、最後にホテルにチェックインして夜を明かしたと語る。益男はポートランドで三郎に2度出くわしたが、三郎の泥酔した振る舞いに反感を覚えたと述べている。 翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Yasui, Masuo

安井益男の日記の現代日本語訳、1912年1月13日

1912年1月13日付の安井益男の日記の現代日本語訳。その中で益男は、午前中はベッドで過ごし、昼食のために起き、夕方には帳簿付けをしたと書いている。そして、静代から届いた手紙のことを書いている。その手紙には、静代が婚姻届のことで悩んでいると書いてあった。益男は、静代がそのことを心配する必要はないと思うと述べ、彼女の両親、そして一般的な日本人の古い世代が、自分たちや若い世代に問題を引き起こすことを嘆く。益男は、自分が静代に送った贈り物や、受け取ったさまざまな手紙について触れている。
翻訳注:この文書は原本と英訳も掲載されている。

Yasui, Masuo

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