検索結果:359件

アーカイブズ記述
Hood River County (Or.)
印刷プレビュー 表示:

デジタルオブジェクト付き307件 デジタルオブジェクトを含む結果を表示

電線延長計画の図面

フッドリバーとパークデールの電線延長計画の手描き図面。   翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

金沢牧師から安井益男への手紙、1915年7月21日

1915年7月21日付の金沢牧師から安井益男への手紙。手紙の中で金沢牧師は、スピーチをしたいので益男に主催してほしいと頼んでいる。最近彼の教会で同じような演説が行われ、多くの聴衆が集まったことに触れ、同じように聴衆が集まることを望んでいると述べている。彼はまた、益男の子供たちに洗礼を受けさせ、宗教教育を施すべきだと提案する。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

野地吉蔵から安井益男への手紙、1916年4月30日

1916年4月30日付、野地吉蔵から安井益男への書簡。野路は、妻の渡米を手配してくれた安井に感謝している。野地は1916年7月12日、ワシントン州シアトルで妻・アサヨと結婚した。                        翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

藤本廉一から安井静代への手紙、1930年8月14日

1930年8月14日付の藤本廉一から安井静代への手紙。手紙の中で廉一は、フッドリバーに新しい安井ビルが建設されたこと、そして静代の夫、益男が命にかかわる病気から回復したことについて感想を述べている。廉一は、日本にいる多くの人々の近況を述べ、ビジネス事情や不況が日本経済に与えている悪影響について書いている。彼は日本で過ごした9ヶ月間と、早くアメリカに戻りたいという願望を書いている。 訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

藤本廉一から安井美智への葉書、1929年7月26日

1929年7月26日付の藤本廉一から安井美智への葉書。廉一は美智に、ワイオミング州のイエローストーン国立公園に到着したこと、彼と彼の仲間で釣りをしていることを報告する。彼は、美智も大きくなったら公園を訪れることができるだろうと書いている。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

藤本廉一から安井益男への手紙、1930年9月8日

1930年9月8日付の藤本廉一から安井益男への手紙。手紙の中で廉一は、日本を再出国するためのビザを申請中であり、その許可を得るために特定の書類が必要であると書いている。領事館から許可を得るために提出しなければならないとして、廉一がシアトルで益男に渡した上陸許可証を送るよう要請している。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

藤本廉一から安井敬への手紙、1930年8月15日

1930年8月15日付の藤本廉一から安井敬への手紙。廉一は敬に、絶版になった日本語の本を取っておいてほしいと頼む。彼は、手に入らなくなった日本語の本を地元の書店が元より高く買い取ることに同意したことを伝える。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

藤本廉一から安井剛への手紙、1944年11月5日

1944年11月5日付の藤本廉一から安井剛への手紙。手紙の中で廉一は、2人の妊娠の知らせに喜びを表している。納税を済ませたこと、軍に許可を申請してフッドリバーに行き、剛の仕事を手伝うつもりであることも書いている。また、知人がフランスでの戦闘で負傷したという知らせも伝えている。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている

無題

片山高志から安井益男と藤本廉一への手紙。1931年

片山高志から安井益男と藤本廉一への手紙。日付は記されていないが、益男と廉一の父品太郎が1931年3月に急死した直後に書かれている。手紙の中で高志は、信太郎の突然の死に驚いたこと、葬儀に参列したことを記している。そして、益男と廉一への慰めと応援の言葉を述べるとともに、できる限りの手助けをしたいと申し出ている。高志は、小売業で苦労していることを書き、忙しかったのですぐに手紙を書けなかったことを詫びる。あとがきでは、廉一の来日後、敬のために廉一に切手をことづけなかったことを詫びている。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

柄澤茂登から安井静代への手紙、1931年

柄澤茂登から安井静代に宛てた、静代の息子敬の死を悼み、悲しみを伝える手紙。茂登はその知らせに衝撃と悲しみを表し、幼い頃の圭の思い出を語る。茂登は、死んだわが子を思って悲しみが止まらなかった母親が、その子の魂があの世で安らぎを得るのを妨げたというエピソードを語る。茂登は静代に、これ以上敬のことを嘆き悲しまないよう懇願し、敬と静代、そして安井家の他の家族のために祈りを捧げる。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

故安井敬の葬儀委員会名簿

故安井敬の葬儀委員会名簿。名簿の見出しには、委員長、会計、受付、接待委員、会場委員、交通委員、写真委員が含まれている。
翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

安井稔の履歴書

フッドリバー市の日米共栄協会理事長、猪佐猪之助から1940年2月15日付けで在ポートランド帝国領事館宛に送られた、安井稔の履歴書。同文書には、オレゴン州弁護士資格試験に合格し、オレゴン州弁護士資格を取得したことなど、稔の学歴や業績が記載されている。また、オレゴン大学ロースクールからの英文の推薦状も添付されている。                         翻訳注:この手紙は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男・静代代夫妻から葬儀参列者への礼状、1931年3月8日

1931年3月8日付の安井益男・静代代夫妻から安井敬の葬儀参列者への礼状。礼状には、受けた親切、同情、支援に対する感謝の気持ちと、与えられた献金に対する感謝が記されている。ヨハネによる福音書3章16節からの引用とともに、賛美歌「はてしも知れぬ」のテキストが印刷されている。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男の日記、1923年9月17日

  • Coll949_B015F07_1923-09-17
  • アイテム
  • 1923-09-17
  • 上位の階層安井家文書

1923年9月17日付の安井益男の日記。益男はその日働き、関東大震災の被災者に送るために寄付された衣類を「慰問袋」に詰めたと書いている。また、息子の剛が病気になったことや、梨の収穫が終わったことも書いている。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男の日記、1912年11月4日

  • Coll949_B015F03_1912-11-04
  • アイテム
  • 1912-11-04
  • 上位の階層安井家文書

1912年11月4日付の安井益男の日記。益男は入国管理局の職員から尋問を受け、益男自身と静代との関係について質問されたことについて書いている。面接はうまくいき、静代は上陸を許可される。その後、益男は親戚の片山の尋問にも同席を求められる。片山は益男が金を借りていると主張するが、益男はそれを否定する。益男は入国審査官に二人の信頼関係を認めさせ、片山の新妻は上陸を許可される。彼はその経験に非常に心を痛めた。その後、二組は郡の役所に婚姻届を提出し、写真館で写真を撮り、食事をし、合同結婚式を挙げる。その日はお祝いの食事で締めくくられ、益男は結婚したこの日に思いを馳せる。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男の日記、1908年5月21日

  • Coll949_B014F10_1908-05-21
  • アイテム
  • 1908-05-21
  • 上位の階層安井家文書

1908年5月21日付の安井益男の日記。益男は、薔薇祭りのために寄付を集める方法を練るため、他の数人とミーティングをしたことを書いている。そのグループは、市内のホテルの宿泊客から寄付を募ることに決め、また、近日中にセーラム、グレッシャム、フッドリバーでも寄付を募る計画を立てる。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男の日記、1908年1月19日

  • Coll949_B014F10_1908-01-19
  • アイテム
  • 1908-01-19
  • 上位の階層安井家文書

1908年1月19日付の安井益男の日記。益男は、翌日片山がフッドリバーに行くための切符を買うために駅に立ち寄ったことなど、その日の行動を振り返る。そこで彼は、初めて会ったシアトルからサンフランシスコに向かう途中の日本人の手助けをした。益男は、片山がポートランドを去るのは残念だが、それが彼にとって最善なことであることはわかっていると書いている。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男の日記、1908年1月18日

  • Coll949_B014F10_1908-01-18
  • アイテム
  • 1908-01-18
  • 上位の階層安井家文書

1908年1月18日付の安井益男の日記。益男は、片山と公園に行って街の景色を眺めたり、片山のコックとしての雇用条件の交渉に同行したりしたことを語っている。その後、当市の領事館の主任である相羽氏の送別会に出席する。
翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男のフッドリバー・アップル生産者組合理事への再選を知らせる手紙

安井益男がフッドリバー・アップル生産者組合の理事に最高得票数で再選されたことを知らせる手紙。また、協会の歴史や開票結果の補足についての概要も記載。3ページ目から5ページめには手紙の大まかな下書きが含まれている。                   翻訳注:1ページ目と2ページ目の手紙の最終稿が現代日本語と英語に翻訳されている。

安井益男と静代から浅井佐五郎夫妻への絵葉書、1946年11月22日

1946年11月22日付けのfデンバーの安井益男と静代からフッドリバーの浅井佐五郎夫妻への絵葉書。安井夫妻は浅井夫妻の娘ミカの結婚を祝福し、息子稔の結婚式のためにデンバーにいることを記している。                          翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男が日本領事に宛てた反日法案撤回に伴う手紙の下書き、1917年3月21日

安井益男が赤松(赤松祐之)日本領事に宛てた反日法案撤回に伴う手紙の下書き 。この手紙はフッドリバーの日本人住民一同からとして書かれたもので、オレゴン州上院議員ジョージ・R・ウィルバー氏(フッドリバー在住)が提出した日本人のオレゴン州での不動産所有を制限する法案を撤回するよう赤松領事が尽力したことに感謝する旨が述べられている。この法案は、カリフォルニア州で可決された同様の法案に倣ったものであった。
翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から金三商会への手紙 1917年2月10日

1917年2月10日付の安井益男から金三商会への手紙 。この手紙の中で安井は、カルシウムコーティングされたファンシーライス50俵の注文をし、米袋に安井兄弟の商標ロゴをステンシルすることを要求している。
翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から藤本廉一への手紙、1930年7月22日

安井益男から藤本廉一への1930年7月22日付けの手紙。 この手紙の中で益男は、敬が蚊に刺されたことが原因で病気になったが快復したこと、安井兄弟商会の新店建設の進捗状況と旧店を取り壊す前に全てを移転する予定、建物の特徴や空間の分け方、その年の不況を踏まえた総事業費等について述べている。また、家族、果樹園の商品、ビジネスに関する最新情報、反日感情の高まりに対する懸念、廉一が使用するべき英文レターのサンプルも含んでいる。
翻訳注:この手紙の抜粋部分は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から藤本廉一への手紙、1930年10月26日

安井益男から藤本廉一への1930年10月26日付けの手紙。この手紙の中で益男は、不況とその一般商業界への影響、今年の林檎と梨の収穫と市場、安井兄弟商会の新しい建物の正面ショーウィンドウの交換と歩道のリニューアルや2階の工事、レストランとガソリンスタンドのある新しい建物の賃貸契約、地価上昇につながるフッドリバーの街の外観に関する考察、柿沢氏からの長く熱い手紙を受け取ったこと、などを伝えている。その他の話題としては、廉一の米国への再入国に関するアドバイスや、町、家族、友人、果樹園の製品、ビジネス等の近況などが含まれている。
翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から藤本廉一への手紙

安井益男から藤本廉一への手紙。この手紙の中で益男は、不況と市場への影響について、日本の経済状況と比較しながら最新情報を伝えている。そして、家族が農業の収入でなんとかやっていけることに感謝し、来年、再来年には景気が回復することを望んでいると述べている。また、安井ブラザーズ・マーカンタイルの新ビルの2階工事の進捗状況や、最新式の街灯、テキサコ・ステーションの成功、2~3年以内の郵便局建設など、街の変化についても最新情報を伝えている。その他の話題としては、一般的な経済状況、教会や友人に関する最新情報などが含まれている。
翻訳注:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から浅井佐五郎夫妻への絵葉書、1946年8月17日

1946年8月17日消印の安井益男から浅井佐五郎夫妻への絵葉書。葉書の中で益男は、前日時間を割いて訪ねてきてくれた浅井夫妻に感謝し、彼らの友情と個人的な経験を喜んで分かち合ってくれたことへの感謝を述べている。また、トウモロコシをプレゼントしてくれたことにも感謝している。葉書の表面には、ロサンゼルス郡総合病院のカラー写真が印刷されている。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から浅井佐五郎夫妻への絵葉書、1946年5月23日

1946年5月23日付けのサンフランシスコにいた安井益男からフッドリバーの浅井佐五郎夫妻への絵葉書。益男は夫妻の健勝を祈るとともに、1ヶ月間全国を旅しており、翌月には帰宅する予定であると書いている。翻訳注:この文書は現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

安井益男から浅井佐五郎への手紙 1946年1月18日

1946年1月、安井が出所した直後に書かれた、安井益雄から浅井佐五郎への手紙。この手紙の中で安井は、浅井の友情に感謝し、第二次世界大戦中の日系アメリカ人の強制連行・強制収容に対する悲しみを述べている。また、オレゴン州フッドリバーのアメリカ退役軍人会が、地元の記念碑から日系人兵士の名前を削除した事件についても言及している。また、浅井の息子である正巳が米軍に入隊し、白人住民の反対を押し切って先頭に立ってフッドリバーに帰還したことを賞賛する。また、自分もフッド・リバーに戻りたいという希望を語っている。翻訳メモ:この文書は、現代日本語と英語に翻訳されている。

無題

to3%の 28への%1結果